おおよそだいたい、合唱のこと。

ようこそお越し頂きました。
主に、管理人が参りました、合唱団の演奏会のロングレビューを掲載しております。
また、時折、気分に応じて、合唱如何関係なく、トピックスを記事にしています。
合唱ブログのつもりではないのに、気付いたら合唱ブログみたいなことになってきました。
やたら細かいレビューからノリツッコミまで、現状、合唱好きな方の暇つぶしには最適です。
ゆっくりしていってね!!!

2016年8月2日火曜日

【カンテムス少女合唱団 Japan Tour 2016 名古屋公演】

2016年8月2日(火) 於 三井住友海上しらかわホール

〈歓迎演奏〉
豊田市少年少女合唱団
指揮:永ひろこ
ピアノ:掛川遼平*
信長貴富「君待つと」(『万葉恋歌』・額田王)
Gyöngyösi, Levente “Convertere, anima mea”
Kubizek, Augustin “Gloria”(Coelius Sedulius)
Tamulionis, Joans “RÁPATA PA”(José Antonio Garsía)
三善晃「音あそび」*

名古屋混声合唱団
指揮:大橋多美子
間宮芳生『12のインヴェンション』より
「知覧節」(鹿児島県民謡)
「おぼこ祝い唄」(青森県民謡)
「米搗まだら」(長崎県民謡)
「まいまい」(富山県民謡)
「のよさ」(長野県民謡)

Cantemus Girls’ Choir
Cnd. Szabó Dénes
Pf. Obbágy Márta
Kocsár, Miklós “Kyrie” “Sanctus” from Missa in A
Tóth, Péter “Panis Angelicus” “Gaudete”(Premiere on Tour)
Caccini, G. “Ave Maria” w/ Fl. and Pf.
Busto, J. “Salve Regina”
Kodály, Zoltán “Hegyi éjszakák”
Gyöngyösi, Levente “Dominus Jesus in qua nocte”(Premiere on Tour)
Gyöngyösi, Levente “Aesperges me” w/ Pf.
Holst, G. “Ave Maria” w/ Pf.

int. 15min

Karai, József “Estéli nótázás”
Kocsár, Miklós “Téli alkony”(Suite)
間宮芳生「五木の子守唄」
arr. 若松正司「さくら さくら」
Kodály, Zoltán “Táncnóta”

en.
菅野よう子「花は咲く」
「ふるさと」(cnd. 大橋多美子)
Kocsár “Jubilate Deo”
(ending choir)
〈カンテムスのプログラムはステージ上で発表されたものの聞き書きであり、誤りが含まれる可能性があります〉
〈2016. 8. 12 一部校正 thanks to M. T.〉

***

 歌は、人が創りだしたものである。そして、その始まりは、とても純粋な動機からだった。――なにも、所謂楽語としての「動機」をのみいうのではない(ギリシャ時代におけるもっとも古典的な音楽は、二度の上がり下がりによる動機=モティーフだったという)。何か音を奏で、その連関が、人を楽しませ、わくわくさせ、共感させ、強く心を震わせる――人間の情動のすべてに語りかける音楽は、まさに人間感情の自然な動機から導き出されるだけでなく、人間感情の素朴な動機を強く揺さぶる。それを人は感動と呼び、なみいる芸術のなかで音楽を芸術たらしめる要素である。
 音は、それをして感動たらしめることに加えて、様々な表情を持つ。様々な形で現れる和声・対位に加え、音色だって楽器でさえ弾き方によってその表情を全く変えるのに、「歌」には、言葉という表情すら加えられる。ルネサンスの頃から特に強く、言葉を止揚・抽象化して音楽の中に落とし込み、言葉の持つ情動を表現することが増えてきた。その試みの最たるものとして挙げられるのが、宗教音楽であり、モテットであった。

 言葉は、独特のリズムを持つ。そしてそのリズムを表現するのが、一般的に作曲と呼ばれている。日本語の楽曲においては特に顕著で、文明開化以後当初、日本の歌曲・童謡といえば、日本語のアクセントに音楽を加えていくという作り方が主流であった。欧州とて例外ではない。当初つくられた聖歌はまさに、教義の音楽化にその主眼が置かれていたわけであって、それは、言葉に音を載せる作業であることにほかならない。
 その流れは、徐々に変わり、ルネサンス前後を機に大きく開花する。言語のアクセントによる長短の工夫、あるいはメリスマ(≒音節の引き伸ばし)の長大化によって、テキストにおける言葉の濃淡を作曲家がコントロールすることを可能にした。それに、古代より続くアルシス・テーシス(称揚と休息)の概念と結びつき、音楽による言語の扱いは愈複雑性を増し、ゼクエンツ(シークエンス、繰り返し)の多用、和声法の発達も相まって、現代へと続く複雑かつメタ的な言語世界の構築へと発展してゆく。
 音楽の中で言語を美しく聞かせようと思えば、歌詞を明瞭に発音するだけではとても足りないのである。必要なのは、音楽の中で言語世界が再現されることにあり、それは、音楽の「息遣い」を知り、演奏することでもある。いわば、言語が日常生活の中に溶け込んでいるだけでは不十分なのだ(勿論、十分アドバンテージにはなるだろうが)。私達の生活のなかに、その音楽が溶け込んでいなければならない。私達の心の奥底にある音楽を、楽譜の、あるいは旋律の指示のまま、呼び起こさなければ、その音楽は「いま・ここ」の存在となり得ないのではないか(だから時折、卒業式だとか合唱コンクールだとかいう場でも、技術度外視で、無碍に感動できる音楽なんてものが生まれたりする)。

 カンテムスの音楽は、モテットとハンガリーの曲を主軸レパートリーとした、徹底的に世俗的な音楽である。もちろん、ミサ曲も演奏するが、それは決して彼女たちの生活からかけ離れたものとは言えない。当たり前のようにそこにある音楽を、当たり前のように歌っていながら、あまりにも洗練されたその音楽に、私たちは心の底から陶酔するのである。様々なレパートリーの中から、その時々に応じてプログラムを選ぶスタイル自体は、音楽小学校を母胎として誕生したプロ顔負け――否、プロ以上の実力を誇るカンテムス・ファミリーのポテンシャルにほかならないが、それは、徹底的なリハーサルの成果というようなものではない。その音は柔らかく、繊細で、しかしとても力強い、矛盾同士が同居してひとつの芸術を作り上げている音である。それらの音が強く共鳴し、曲の和声を最大限に引き出し、ホール全体をならしてゆく。言ってみれば、呟いた音が、そのまま和声になっているようなのだ。それは決して劇的な体験ではない――しかし、えも言われぬ充実感が私達を包む。
 そう、私達は、彼女たちの日常を垣間見ているのである。時に祈り、時に遊び、時にたおやかに伸びゆく、彼女たちの日常を。歌の中に生き、歌とともに育つ彼女たちは、ホールの場においてもなお、その素顔を隠さない。むしろ素顔をして、私達の意識の中に忍び込む。そして、私達は、まるで嘗て昔からその音を求めていたかのように、聞き惚れる。フレーズが、和声が、絶妙に膨らむモティーフが、心の隙間を埋めるように、私達の当たり前の感情に寄り添う。その歌は意思を持ち、響きをして、ホールという非日常の中で、日常を遊ぶ。

 披露された数多くの曲の中にあって、特に新曲たるジェンジェシ「主イエスはその夜」は、今回の演奏の象徴といえるのかもしれない。静かな低声の通奏の中に浮かび上がるメロディが、和声の力を借りて、素朴ながら印象深い旋律を奏でる。それは決して華美とは言えないものの、しかし、確かに膨らみ、旋律が明確な意志を持って自立している。まるで息遣いのように響く音楽が、かつてからそこにあったかのような必然性と、しかし、確かにそこに新しく顕れた存在感を以て、すんなりとにじむ。その素朴さと美しさを、いつまでも独り占めできるのなら、と、ふと思う。
 そう、その音楽は、どこまでも私的な体験なのだ。私しか知り得ない感情の奥底へ、カンテムスの音楽は届くのだ。だれもが持つ私的感情に届く時、カンテムスの音楽は個人的体験となって私達の記憶に残る。それは、歌い手ですらそうなのかもしれない――思い出であり、原体験でもあるその音楽は、自分だけの体験となって、自分のもとに残るのだと思う。

 私達は、果たして、音楽のある日常を、どこまで認識できているのだろうか。決して技術的に悪くなく、よく和声が響いていた豊田市少年少女合唱団と名古屋混声合唱団の歓迎演奏にも、どこか硬さを感じてしまう。推進力、という言葉をよくこういう場合は用いていた。推進力が足りない、音と音の繋がりを、と、よく言っていた。しかし、それはもっと単純な話なのかもしれない。旋律を、おのがものとする力――まさに「歌心」といったものだろうか、それは、私達自身が、音楽に求める感情そのものに対する問い直しのことともいえる。自然に出てくる歌心を、表現しきるのは、容易いように見えて、常に自身との対話を必要とする、深淵な作業でもある。

 それは、やはり、日常の中に生きている音楽にこそ、答えが隠れている。音楽のきっかけは、日常にこそあるのだから。

0 件のコメント:

コメントを投稿