2016年8月14日日曜日

【千葉大学合唱団東海市特別演奏会】

2016年8月14日(日)於 東海市芸術劇場 大ホール

・メシーコール
門池「大橋みそカツセット」
名鉄・太田川駅から歩くこと25分。東海市役所・大池公園の北に、ロードサイド型の喫茶店があります。定食もやっている喫茶店、まさに、大通りの真ん中にあり、車で来た時のお昼などに最適な場所です。でも、そんな喫茶店・定食「門池」、実は、それだけではない側面を持っているのです……。
今回、あえて会場を離れる方向へ、この店を訪れました。訪れること、通算2回目。今回のお目当ては、以前回避したこのメニュー、「大橋みそカツセット」を攻略するため。大橋、の名前にピンときた人、……同志ですね?笑 そうです、ここ、私が敬愛してやまないアーティスト・スキマスイッチのヴォーカル・大橋卓弥が嘗て通った店なのです。愛知県東海市の出身にあって、まさに、この店は、いわばタクヤ青春の地。以前、ファンクラブでこの店のことが紹介されていこう、各種メディアへの露出や事務所サマフェス「オーガスタキャンプ」への出店も果たし、着々と、スキマファンの聖地としてのポジションを占めている店です。もちろん、グッズ収集にも抜かりがなく、今回のスキマコーナーは、最新のツアー「POPMAN’S CARNIBAL」仕様でした笑 ちなみに、同じ理由で、中日・浅尾投手の聖地でもあります。
で、この、大橋セット。嘗てタクヤが食べていたメニューを再現したという、「聖地」としての門池における看板メニュー。今日の内容は「大盛ごはん」「味噌汁」「山盛りとんかつ」「キャベツサラダ」「しば漬け」「ミニそうめん」「デザート」……そうです、アホみたいに多いんです!笑 嘗てタクヤは、これに加えてさらにとんかつもう一皿食べてたとか……(戦慄)
そんなわけで、今回は、太田川駅最寄りの新しいホールでの演奏会とのこと、こんな好機になぜ行かぬ、とばかりに、お昼はその店で過ごしたのでした……ちなみに、なんとか大橋セットを打倒した当方、その後開演までの道すがら、腹いっぱいで苦しかったというのはまた別の話……演奏会前に食べるものじゃないな、アレは笑

そんなわけで、千葉大合唱団の演奏会。栗友会の一角が、堂々の名古屋登場です。え、東海市? 細かいことはいいんじゃあ!← しかし、夏の演奏旅行というのは、有名団の特権ですね。羨ましい。いずれ当方もあやかりたいところ。
ちなみに、若干チラシ配りに協力していたら、パンフレットの「スペシャル・サンクス」に名前が連ねられていました……そんな、感謝されるようなこと、したかなぁ……苦笑 ともあれ、こちらこそ、ありがとうございます、ということで。

・ホールについて
愛知県東海市に生まれた新しいホール。名鉄・太田川駅は、最近駅前の再開発による発展著しい場所。特急も止まるため、名駅からだいたい30分もあれば辿り着ける点、さほど遠いという印象もないホールです。そりゃ、名古屋市民からしたら、栄の方が近いじゃん、とはなるんですけれども笑 なお太田川駅、全国的にも珍しい3階建て駅舎・2層式ホームで有名でもあります。
座席数広めで2階席もある多目的ホール。音楽に限らず何にでも使えそうだなぁという割に、比較的よく響くこのホール、前評判からして非常に期待度の高いホールでした。その期待を裏切らない、素直な響き方で、すっと消えゆく、音楽に理想的な音響。ただ敢えて言うならこのホール、音量を拾ってくれるホールではないので、付き合うのは難しそう。鳴らせればそりゃ、いつものようになんてことはないんだけれども、響かせ方が悪いと奥に引っ込んでしまいます。
そして、このホール最大の特徴はこれだと思ってる。1階席が、絶壁! いやぁ、絶壁ホールって結構いろんな場所にありますけど、ここまで清々しく絶壁なホールは久々に見ました。座席規模が大きいから、気分としては、中電ホールや東文小なんかよりもずっと絶壁感がスゴいような気がしています。ただ、絶壁、ということは、舞台公演としては、基本どの席からでも見たいものが見れるということなので、その点では全然ありなんだと思います。
今回の特別演奏会は、栗友会が嘗てこのホールでのこけら落とし公演に噛んでいたことがあることに由来するそう。一種、凱旋的な演奏会です。

学生団に珍しく、エールをやらずに、そのままスタート。入場は、1ステは若干遅めだったかしら? でも、気付いたらあっという間に並んじゃってるから、それはそれで不思議な気持ちに……笑

第1ステージ
高田三郎・混声合唱組曲『心象スケッチ』(宮沢賢治)より
「森」
「さっきは陽が」
「風がおもてで呼んでいる」
指揮:佐々木晶

まずはご挨拶ばかりに。爽やかな、ああ、学生団だ、というサウンドが飛び出してきます。どこまでも明るく、どこまでも素直で真っ直ぐで、逆に、それだけに音楽が擬制されているような。
原則何より、あらゆることをちゃんとこなす器用な合唱団だと思いました。あえてこう言いたい、さすが栗友会。音程もバッチリでよくハモって聞こえる。時折ダレる場所こそあれど、全体としては及第点も及第点、名古屋では中々聴くことのできない水準の、十分満足な演奏を聞かせてくれます。でも、だからこそ、それが課題となってしまうのが、こういうアンサンブルのポイント。あらゆる場所で同じ響きを、少なくともこのステージでは使ってしまっていたから、表現に対する深みがいまひとつ足りなかったように思います。言ってみれば、ディナーミクに頼り切りになってしまっていた。あふみの時に言ったことを逆にとれば、もっともっと、一音一音に対する研究が、高田音楽にあってほしいところです。
とはいえ、そこは学生団。それも第1ステージ。ある意味、「爽やか!」その一点で音楽を作ってしまっても、何ら問題は無く、むしろそれでいいような気がするのですけれども笑

そこで前列の席からガヤガヤと人が立ち上がり、ステージへ。賛助の皆さんが空いたところには、千葉大の団員が。なんか、聞き合っているッて感じがステキです。

第2ステージ・賛助ステージ
演奏:東海市民合唱団
arr. 寺嶋陸也
文部省唱歌「冬の夜」
滝廉太郎「荒城の月」(土井晩翠)
文部省唱歌「村の鍛冶屋」

賛助ステージ。ホールの誕生とともに生まれた市民合唱団。まさに、「合唱」、その言葉の意味を再確認させられる、声を合わせ歌を楽しむ合唱団。所謂技術的な面で言えば、決して高いわけではないものの、しっかりと音はあたっていて、響きも高めなのが好印象でした。そしてなにより、このホールが、そして、音楽をするのが楽しいのでしょう。非常にアツい演奏をおやりになる。人数もあってか、強くしたからといって特に崩れることもなく、エネルギーをそのままボリュームに転嫁できていたのが好印象でした。特に、「村の鍛冶屋」など、本当に音楽を楽しんでいる様子が印象的でした。こういう歌が、またいいんだよなぁ。これまた。

インタミ20分。この規模の前プロにして長すぎないかと思ったところで、イヤイヤ、この時間を使って、指揮台を高くしたり、一部台バラしたり、さらにはオケピットをつくってそこにピアノを運んだりしなければならないのですから、これくらいあって当然ってもんです笑

第3ステージ
池辺晋一郎・合唱(混声)のための探偵劇『歌の消息』(加藤直/台本・演出)

「どこからきたのか?」
「失踪」
「たとえれば」
「ボクは此処に居た」
「此処ではない何処か」
「“意味”のバラァド」
「探偵団」
「さまよう青春」
「無題」
「噂」
「尋問」
「夜のうた」
終章
指揮:栗山文昭
ピアノ:澤瀉雅子
舞台監督:植杉光芳
照明:成瀬一裕(あかり組)

今回の目玉となるステージ。栗山先生がオケピットに入ってくる様子をして既に絵になります。1994年、合唱団OMP(現・合唱団「響」)初演です。12曲に前後くっついて、さらに演出も入る超大作で、何より見るだけで体力のいる曲笑 まして曲ともなれば、池辺先生が栗友会からの委嘱に気合を入れまくったのか(否それは事実だろうな……笑)、古きよき難曲要素を、和声、旋律ともにふんだんに取り入れて、バラードからスウィングまで、妖しくも輝かしいものが光る、独特の質量感を表現しています。そう、歌いこなすだけでも異様に大変なこの曲に、なんと本格的に演出まで入れてしまって(否そういう曲なんだけど)、ひとつの探偵劇を構成します。
技術的な面については申し分ないでしょう。さっきまで、軽いかな?と思わせた部分も、指揮者のなせる業か、再演からくる慣れからか、はたまた、曲が導き出した音色によるものか、この曲によく合った、充実したサウンドが鳴っていました。しかしまぁ、歌うのですら大変なのによくぞ動いてもなお、あのクオリティをキープできるものです……笑
この曲における「歌の消息」について。具体的なストーリーを追っかけるのも、何か野暮な気がします。このステージにあって、様々な「歌」をして、各々のメンバー、そして、各々の観客は、各々の「歌」を探しに行きます。言葉の絶えず交錯する先に、心の奥底にある「歌」に対する記憶が呼び起こされていく。その中にあって、行き先を失っていた歌は、各々の心の中に、その行き先を再発見していく、そんなような気がしています。
ともすると、この曲自体の「歌の消息」は明白です。この曲は、それ自体が体験になる。まさに演出をして、その部分がわかりやすく構築されています。演出がないといけないわけじゃないかもしれないけれど、演出があることによって明白に定義づけられていく「歌の消息」。この演出と、この歌、そしてこのステージは、紛れも無く、一期一会。人によっては、――今日は小さい子も多かった――、どこかで聞いたような気がするけれど、といった「消息」を尋ねるべき「歌」に、この曲自体がなりえます。それは、不幸なことなのか。否。こうして音楽は、その業をなし得るのだと思います。消えゆくものだからこそ、それ自体が「消息」を尋ねる体験であると気付いた時、この曲は、循環的に、この曲自体の「消息」を尋ねゆくものだと思いました。
……などと色々呟いてみましたが、久々に本格的なパフォーミングアーツを見せられました。割とコンパクトな構成だった、というのが、これまた、プロのなせる業なのです。スッキリと、やりたいことだけに主眼を向けることで、しかし、メッセージが逆にハッキリと浮き立つ構成だったように思います。勉強になりました。

アンコールはなく、そのまま終了。そりゃそうか……笑

・まとめ
長いようで短い、短いようで長い、そんな演奏会でした。確かに重いプログラムをやっているんだけれども、一気呵成に見せてくれるもんだから、くどいわけでもなく、しかも作品もグイグイ引き込んでくるもので、余計に短く感じました。とはいえあるプロ曰く、こういうのは、もっと見たいと思わせるくらいがちょうどいいとのこと、とすると、これくらいがちょうどいいのかも。
その、長いような、短いような時間というのも、ひとえに、この演奏会の感動の由来が「身体性」によるものだからかな、と思いました。身体をして感じる知覚の共有、とでも言っておきましょうか。いってみれば、眼前に広がる光景に対して、身体が、さもそれを追体験しているかのように感じるんです。よく、名演に接すると自分も歌いたくなる、だとか、自分も歌ったような気分になる、という表現がされることがありますが、まさに、そのように、自分が具体的に為しているわけではないのに、さも、その只中で経験しているかのような心持ちになる。知覚が、自分の中で認識されるにあたって、身体的な事柄と関連付けられることを、身体性、と呼びたいと思います(似たような哲学的文脈が存在しますが、正確に論旨を追っているわけではないので、あくまで独自解釈として)。
いってみれば、今回の「歌の消息」は、身体的体験に他ならなかったのだと思います。もちろん、歌のみをしても十分ありえる感覚です。歌が、そして、それが見せる和声が、その只中にあって、自身をして、その音画的風景の中にあるように思わせる感情。今回は、池辺作品にも勿論加わるそのような音的側面の身体性に加えて、視覚的・運動的な身体性、すなわち、動きや光に関する身体性も加わりました。処理すべき情報が多いのですね。その分、抽象的に受け取った身体として、感じいるところがおおかった。
とどのつまり、「五感で感じる」ってやつです。五感で感じて、五感が受け止めて、五感が反応する。全身が感動する。単に「動きをつける」といって、表面上で何か楽しい要素をつけようというのでない、心の底から、芸術として、身体性と正面から向き合う表現。それが、栗友会の、千葉大のシアターピースなのかもしれない。千葉大の団員の、FBコメントでも、「シアターピースなんて……と嘗て思っていた」旨の内容がありました。でも違う。これは、芸術なのです。まぎれもなく。
もっと、いろんなシアターピースを見てみたいな、と思いました。もっと、奥底から感じる芸術を。……とりあえず、トリエンナーレのパフォーミングアーツでも見に行こうかな……笑

0 件のコメント:

コメントを投稿