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2016年3月19日土曜日

【東京混声合唱団 第239回定期演奏会】

[東混60周年前夜祭]
2016年3月18日(金)於 第一生命ホール

指揮:下野竜也
ピアノ:浅井道子*
エレクトーン:大竹くみ*
打楽器:高橋明邦**/加藤博文**

Pizzetti, Ildebrando “Messa di Requiem(1922)”
“Requiem”
“Dies irae”
“Sanctus”
“Agnus Dei”
“Libera me”

int. 15min

三善晃『トルスII(1961)』(萩原朔太郎)*,**
「殺人事件」
「見えない兇賊」

-没後120年-
Bruckner, Anton “Motetten”
“Pange lingua” WAB33(1868)
“Locus iste” WAB23(1869)
“Virga jesse floruit” WAB52(1885)
“Vexilla regis” WAB51(1892)

松村禎三「暁の讃歌(1978)」(「リグ・ヴェーダ」より、林貫一・訳詩)*

encore
arr. 松村禎三「牧歌」

 言葉をして演奏会を語らしめるのは、実はたいへん難しい。今もなお、文字をして音楽を語るのは、比喩に頼らざるを得ない状況がある。確かに音楽の世界でも打ち込みの技術は進歩していて、その意味、例えばプログラム言語なら、いまや現前する音楽のすべてを再現できるのかもしれないが、我々が普段語る言葉で、その演奏がどんな演奏だったかを表現するのには、どうしても限界がある。
 多くの演奏会を言葉にしてきた自分にとって、もはや諦念にすら似た、音楽の言語化という作業への思い。それは、特に名演になるにつれ難しくなる。変な話だが、突っ込みどころの多い演奏の場合、ここをこうせよ、あそこをああせよという表現だけで、紙面を多く割くことができる。量が稼げる、という意味では、筆者にとってはある意味ありがたい存在でもある。
 だからこそ、だ。「書く人間」を主語とした時、その力量が最大限問われるのは、素晴らしい名演に接した時、だ。突っ込むことはない、否むしろ、自分の力量で技術云々は言うに及ばない場合。愚直に、正直に、その演奏が如何に良かったかを語るとき、言葉はなんと無力なことか。――上手な演奏を上手だったと述べるのは簡単だ。だが、内在する感動をどこに、どのような言葉でぶつけるか。そこで私はたちどまる。名演だった、感動した、心からハーモニーに酔いしれた――使い古された表現は、いうに容易いが、その概念を超越した感動に対しては、幾許か、力不足に見えてしまう。

 東混の実力の在り処は、プロとしての圧倒的な歌唱力にその根源を求められるのは言うまでもない。その圧倒的なボリュームと、何より鍛錬に支えられた迷いのない発声は、東混にとってまた大きな武器である。しかし、それだけをもってするならば――語弊を恐れずに言えば――東混でなくてもいい。全国各地にプロの発声による合唱団はあまた存在するし、東京を中心に多く結成されているオペラシンガーズは、まさにその代表格である。力強い発声をのみ聴きたいというのなら、別に東混以外にも選択肢はある。東混は、トップランナーの一角ではあるが、それは部分集合に過ぎない。
 では、だ。東混の実力の在り処は、そこだけではない。その、東混の実力の在り処を探るとき、パンフレットに寄稿された、音楽監督・山田和樹の連載コラムが示唆深い。そこに掲げられた、創団時の目標には、「一、楽しい雰囲気の演奏会を行う。/一、職業合唱団として成立させる。/一、日本の合唱曲を創る。」とある。そして、それは「今も色褪せず、東混の主目標」だという。つまり、だ。東混の魅力は、これを60年脈々と受け継ぎ、そして、継続をして、それを体現せしめている、ということにある。
「楽しい雰囲気の演奏会」とは、必ずしも、ファニーな演奏会を、ということのみを意味しているわけではないだろう。そのそれぞれの曲を、その特徴を捉え、あるいは包摂して、十分に世界観を表現していくこと。作品の背景にある世界観の表現は、それはすなわち、音楽における楽しみといって良いだろう。すると、楽しい雰囲気、とは、とりもなおさず、音楽をして楽しむ、ということにほかならない。
「職業合唱団として成立させる」とは、確かな収入を演奏活動から得ることはもちろんのこと、それに見合う経営体制・演奏体制の確立と、弛みない営業活動を両立させることもまた、その条件の一つである。現に東混は、一般の楽団同様の組織体制を持ち、パンフレットにも掲載している。公な形でコンサートマスターを置く合唱団を、私はこの団のほかに見たことがない。
「日本の合唱曲を創る」とは、まさに、この合唱団における数多くの初演活動にほかならない。その中には、まさに日本の合唱における金字塔となる作品もあれば、世界にも類を見ない、鮮烈なイメージを以て語られる独特かつ難易度の高い現代曲まで、決して耳障りの良い作品に留まらず、日本の音楽界全体を見据えた演奏・作品委嘱活動は、まさに日本の宝とも言えるような偉業である。

 この日の「東混60周年前夜祭」では、その3つの目標、そしてプロの合唱団としての実力が綜合された。作曲家自身の妻の逝去に際して作られたという、ピツェッティ『レクイエム』は、まさに1ステージ目にして、今日の演奏会の全てを語らしめてしまうような演奏。各声部の独立から始まる同曲は、平行和音を含む難易度の高い和声進行と、それぞれが主役を張って歌う旋律とが綜合された難曲。加えて、ミニマル的に展開される旋律の回帰も含め、同質性と展開力が同時に求められている。その上、トリプルコーラスの3曲目、少人数アンサンブルの4曲目などの編成の変化もある。弱音、強音、フレージング、主従の協働、あるいは対立――その全ての要素を、この団は消化仕切った――否、言葉遊びのようだが、昇華仕切っている。その表現があることの必然性を感じているからこそ、その表現は自然に、しかし、十分な印象となって、私達のもとに訴えかける。外声に留まらず、内声も能動的に機能し、響かなければならないところで響き、和声を歌わなければ鳴らないところで、控えめに、しかし、しっかりとその存在感を主張する。
 そう、今日のマエストロ・下野竜也は、どんなに複雑な曲でも完璧に整理して聴かせる達人である。難しい場所でも淡々と、しかし着実に叩き、団員を誘導する。綿密なリハーサルの上に組まれたであろう、音楽に忠実な、整ったその表現は、曲の世界のありのまま映そうとするその顕れでもある。それは、三善晃『トルスII』でもやはり明らかとなる。殺人の直後という、いうなれば三善生涯のテーマともなりうる、人間の存在理由についての主題に対して、詩の絵描く風景をなぞるように、のちの三善作品にも通じるような様々な技法を駆使して語られる。三善の実験作品群「トルス」とあって、三善が合唱で出来る全てを試したとも言える、複雑かつ充実した音像を、やはり下野は着実に捌いてしまう。下野に曰く、「作曲家の原点とも言える作品」をよく扱うという。それはいわば、作曲家の原点との対話であり、嘗て『焉歌・波摘み』に感動した指揮者にとって、その奥底に潜むテーマを抉る作業でもある。
 とすると、この作品もまたそうだろうか。ブルックナー『モテット』は、作曲家の華々しい交響曲とはいささか趣を異にし、少々小さめな、しかし、それでも十分な倍音を含む和声が随所に顕れた曲である。いわばそれは、作曲家自身の祈りであり、緩急に、強弱に、その表現を張り巡らせる。テキストの扱いという、まさに東混の鍛錬してきた事績も手中に収め、その表現をより厚いものとする。そう、ラテン語という歌い古された言葉でさえ、この日の東混にはスキがなかった。あらゆる母音のひとつひとつに対する表現は、統一した響きとして、ひとつの大きな音楽表現を根幹から支える力となる。特に難しい閉母音についても完璧に決める表現力は、日本の合唱界を牽引する所以を物語る。
 そして、だ。この演奏会では、語るのをやめたくなることがしばしばある。否、伝えたくないわけではないのだ。伝えてしまうと、それだけで演奏が色褪せてしまうような気がして、怖い気持ちにさせられる。その最たるが第1ステージのピツェッティであり、そして、第4ステージの松村禎三「暁の讃歌」である。嘗てこの団が初演した作品にして、団員の構成は当時とは違う。しかし、それでも、この団が演奏する意味性を感じさせる。器楽の通奏から始まり、歌詩の世界が徐々に持ち上がっては消えていく中に残る「闇は去り、光は満つる。」そして、興奮のままに言葉が叫びとなり、やがて静かなうちにただひとつ残るエレクトーンの和声――。合唱とともに、私が語る言葉をなくす所以はこの曲にある。アンコールの松村禎三「牧歌」に至るまで、普段のようにメモをとることすらおぼつかなかった。

 素晴らしい演奏会だった。それは言葉にするまでもないのである。第1ステージから何度もカーテンコールを呼び、団員が全員ステージを去るその時まで一切止むことのなかった万雷の拍手は、まさにこの演奏会の評価そのものにほかならない。自然に出るブラボーの声に、会場を包む安堵にも似た充実感。これでこそ、一流の演奏会を聞いた、という会場の様子である。
 そして、その充実感の元はどこにあるのかといえば、まさに、そのプロとしての仕事にほかならない。今回のプログラムは特に、感情を込める、とか、そういった作業とは程遠いものである。しかし、逆に言えば、職人のように、淡々と、楽譜上の表現を確実に再現していくことが求められる。そのようなプログラムにあって――否だからこそ、下野との邂逅は僥倖であった。彼らの仕事は、まさに、プロとしての仕事に他ならないものであった。「楽しい雰囲気の演奏会」とはどのようなものか――それはもしかしたら、「職業合唱団」をして言うのなら、自らの作り上げた日本の合唱を、皆がどのような風にも受け取れるように、ニュートラルに、しかし一方で情感豊かに伝えることなのかもしれない。そういうことなのだとしたら、この演奏会は、もはや、奇跡的な、ひとつの作品であったように思う。作曲家はおろか、東混の原点を、この演奏会は引き出した。感動は、その裏打ちに他ならない。

 山田は、コラムの後半に、自身の音楽監督としての考えとして、「改革といっても(…)ヒントは全てこれまでの歴史の中にある」と述べている。その歴史を回顧し、昇華し、未来へつなぐ「東混ルネッサンス」は、着実にその芽を伸ばしつつある。
(文中敬称略)

***

ちょっと、毛色の変わったレビューを上げてみました。否、もう、感動しっぱなしで、語るに及ばないというか、どういう言葉を投げたらいいか、自分の中でも大変に迷ってしまって。本当にスキがなかった演奏会でした。下野先生は、オケの時から感じてましたけれども、本当に、完璧にアンサンブルをまとめ上げてしまいますね。それも、プロとしての実力あって初めて応えうる要求なのだと思います。少々のトラブルはありましたが(ヒントとして、インタミの場所がズレてるとか笑)、それはまたご愛嬌ということで笑
明日(ってか今日だな)、信州への道すがらでパソコンいじれそうだったら、いつものスタイルでのレビューもまとめるかもしれません。そんな余裕はこの区間にはなかった……笑 今日はとりあえず、明日に備えて寝ようと思います……って、だいたい、こんな時間だし今笑

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